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病者の祈り

2025年10月
いわたさいこ

『いつの日か この命終える時 最期の景色はおまえの瞳』

私の植物画教室の生徒さんで野の花診療所のスタッフでもあるYさんが、若くしてご主人を亡くされた時のことを診療所の冊子に投稿、この谷村新司の歌の歌詞を引用されていた。野の花診療所とは、鳥取市にある緩和ケアを目的とした医院のことである。

谷村新司の歌詞を検索すると「愛」という歌だった。最近このフレーズをよく口ずさむ。

Yさんに、私も夫が亡くなる前にアイコンタクトしてくれたと報告することができた。

彼女に我が夫の症状を相談したのが20242月。彼女から話を伝えられた野の花診療所の徳永医師はすぐに小さな原稿用紙一枚に手紙を託された。味のある文字で、「岩田さん 苦労される局面ですね。選択はいろいろ、今を終局として選ばれるのに一理あります。どの道も悔やみますが、結局は赦され、おさまっていく、と思われます。揺るぎながらも安らぎが訪れますように。2024.2.22 徳永進」

 

この年1月、夫は片足切断を余儀なくされて鳥取医大に入院。しかし片足失うくらいなら死んだほうがましと、本人の決断で予定されていた手術をキャンセルしての退院。担当の形成外科の医師から、切断しないなら壮絶な痛みと匂いで死んで行く、死を覚悟なら救急車は呼ばないで救命になるので、との言葉に、私はいざそれに直面した時に自宅で夫を看取れるのか不安でいっぱいになり冒頭のYさんに相談した。

夫はそれまでも20233月に手指を切断、同年8月に足指切断している。

38歳で人工透析導入、それから26年間透析を続け、20156月に夫婦間生体腎移植を行うも、長年の透析の影響で手足の血管が石灰化し血流障害から潰瘍に至る部分が頻発していた。

あちこち体を刻まれながらも生き続けなければならない辛さを思うと、違う形で命終わらせてあげたいと、この時期から私は思うようになった。

違う形、それは結構具体的な意味合いである。

 

夫は47歳で胃の全摘をしている。

メネトリエ病という稀な病気。透析患者である夫がこの病を合併すると大量出血を併発する。数年前から下血、タール便、吐血を繰り返し、胃カメラで検査を繰り返すも原因究明にいたらない。胃の全摘出後分かったが、メネトリエ病の特徴である胃の糜爛(びらん)が発見を見逃すことになっていた。

当時、胃でもなければ大腸かと入院検査するも異常なし、次は小腸の検査をという段階で夫は突然意識を失う。心臓が30秒止まり看護師の賢明な処置で蘇生し緊急手術へと。内科医から呼び出しを受けた外科医は触診の結果、多分胃からの大量出血が考えられる。一か八かやってみます。ご家族を呼んでくださいと言われた。

家族を呼ぶ。 そこまでのことかとショックを覚え、先ず長男の通う高校へ電話。次男への迎えは実家に頼み、夫の両親へ連絡。その頃は携帯電話を持っておらず、ナースセンターの前の公衆電話で心臓の鼓動を感じながら、それぞれに伝えた内容を今でも覚えている。

長男が高校から自転車で田んぼ道を突っ切って駆け付けたのは、夫が手術室へエレベーター移動する直前。懸命な呼びかけで意識の戻っていた夫は長男を見るや否や目から涙が溢れた。これが最期と思ったのかも知れない。手術室のドアが閉まる直前に夫の両親が間に合いベッドを見送るも、私の説明を聞くなり義母は腰が抜けて床に座り込んでしまった。

通された控室で不謹慎にも葬儀のことが頭をよぎる。そんな中手術室から連絡が入った。血圧が下がる一方なので胃を全摘するしかないとのこと、それで命が助かるならばもちろんと返事をした。

また大量出血のため輸血が必要になり、必要なAB型の血液を息子やその同級生や院内の医師から輸血をして一命を取り留めた。その頃には輸血の依頼の電話数本から広がった見知らぬ善意の方々で、ナースセンターの前の廊下は溢れかえっていた。

夫は無事生還し、その後は透析を続けながらも仕事を続け、当時中学生と高校生の二人の息子たちを育て上げた。

この後も56歳には大腸の憩室炎の手術で縫合不全を起こし再手術で人工肛門導入となり、大腸が自然治癒するまで苦労した時期もある。ストーマの位置が悪くパウチが外れ易く、交換の都度夫婦で泣きそうになった。この年は、ストーマ閉鎖術、腹壁補強の医療用メッシュを入れる手術と計4回の手術をした。

 

胃の全摘。これは胃の噴門、幽門もなくなるわけで、食道から直接十二指腸へ繋がる。

2015年に夫婦間生体腎移植が行われ、長年の透析から解放され、それまで制限をせざる得ない飲食の量や種類から大きく開放された幸福感は言葉に表せないほどだったと思う。と同時に強い免疫抑制剤を死ぬまで飲み続けなければならない。これを怠ると移植した腎臓が拒否反応を起こす。決まった時間の服用、尿量の確認、定期的な血液検査を伴う受診、緊張感を持った移植後の生活が始まる。一番怖いのは感染だ。インフルエンザ、コロナ、肺炎、怪我等、あらゆるきっかけでそれは襲ってくる。それでも、それまでできなかった旅行を夫婦で数年できた。東京、信州、北陸と。透析と食事の制限なしに動ける自由を26年ぶりに味わう。腰痛で歩行の辛さはあったものの杖をつきながら最低限の日程を楽しんだ。

 

腎移植。2014年春、長年ドナー登録を続けていた夫は、脳死のドナーを待っていても宝くじに当たるようなものと登録を諦め、必要な定期的な血液検査を受けなかった。が、しばらくして移植のコーディネーターから連絡を受け、思い直して病院へ向かった。待ち受けていたのは、それまでと違う移植医、杉谷医師であった。配偶者の腎臓を移植する話をされた。現在は免疫抑制剤の進歩で血液型が違っても移植後、透析から解放された生活ができるようになる。夫婦で旅行を楽しむことができると言われた。

車で待ち受ける私に夫は乗り込むなり報告した。私は二つ返事で承諾する。その後、昼食に夫婦で回転寿司に入る。カウンター席の夫の箸が止まった。ふと横を見ると泣いている。長年の透析の苦しみから解放される感動が私にも伝わってきた。

それから移植まで1年かかった。夫の場合、先に挙げた人工肛門を経験した経緯から医療用メッシュが腹に入っていた。異物を取り除かねば移植はできない。鳥取医大の形成外科の医師と医療センターの杉谷医師でタッグを組んでの手術が行われた。また同じく先に挙げた胃の摘出時の輸血もハードルとなった。移植前には血漿交換をすることにより、移植された腎臓を攻撃する原因となる物質を除去の必要等、様々な治療に時間を要した。

20156月移植手術は無事終わり、高かったクレアチニンの数値が下がったと、先に手術が終わった私のベッドサイドに杉谷医師が駆け寄り興奮気味に報告をした。その直後、夫の管から尿が出る。26年ぶりの排尿である。夫が63歳の時である。


最初の誤嚥性肺炎は移植後退院してすぐだった。夫のそれは就寝時の逆流性誤嚥肺炎。胃の噴門がないのでベッドで横になると食べたものが逆流する。それが肺に入り肺炎を起こす。免疫抑制をしているので簡単に肺炎になってしまうのだ。

そういうことで、多い時には年に5回も肺炎で入院をした。他にも、蜂窩織炎、尿管結石による緊急手術、左右のアキレス腱断裂、腰の手術、閉塞性動脈硬化症の手術による薬の副作用から筋肉血種の破裂、他いろいろ。在宅より病院にいる方が多いくらい次々と病と闘う。平均年に2.3回は入院が続いた。

度重なる逆流性誤嚥肺炎や様々な手術で、抗生剤がその都度投与される。抗生剤も度重なる投与では耐性を持ち効かなくなってくる。長期間の投与では肝機能障害も起こる。

日常生活では、感染を起こさないように細心の注意を払う。睡眠時には腸からの逆流を防ぐためベッドのリクライニング調節が欠かせない。就寝2時間前からは絶飲食を守る。本人の希望で夕食の内容は肉や揚げ物や練り物を避けて消化の良いものを摂取する。それでも、夜中に頻繁に逆流誤嚥が起こる。どんなに食事を制限しても腸液が逆流するのだ。その間にも先に挙げたような様々な症例で抗生剤の投与が必要になる。

そんな中、腎移植をしたものの長年の透析から発生した血管の石灰化により、手足の末端に潰瘍が出来始める。最初は小さな傷ができたと軟膏を塗るが一向に治らない。だんだんその傷が広がり深くなって行く。受診をするとそれは単なる傷ではなく潰瘍と分かる。気が付くと骨まで侵されて骨髄炎となっている。こうなると切断しか命を守る方法はなくなる。手の指も足の指も、このように切断されていった。

腎移植の杉谷医師はいつも親身になり、夫やドナーの私を診てくれる。その医師が言うには、血流不足で更に他の指もいずれ切断になるだろうと。

夫の身体はまだこれ以上に刻まれ続けなければいけないのか。こんな状態でも生き続けなければならないのかという思いが私の中で起こっていった。いっそのこと誤嚥肺炎で命終わった方が、夫も楽ではなかろうかと私は思うようになった。

 

20242月に切断手術をキャンセルしてからは、骨髄炎の部分のガーゼ交換に毎日のように受診することが始まった。医大形成外科の主治医と近所の整形外科医の丁寧なガーゼ交換により何とか最悪の状態から回避できるのではと思った頃、202412月、新たなる潰瘍が足指に生まれる。それはみるみるうちに悪化し壊死してしまった。と同時に血液データに感染が起きていることが判明。定期的に診てもらっている杉谷医師から、今日明日の命だと宣告を受ける。夫は動揺して初めて切断の意思を表明した。命の限界を突き付けられると生きたいと思う、人間の当然の本能だ。この時夫は私に、母親を見送らねば死ねないと言った。義母は97歳で施設にいた。

 

ことは急展開、運よく医大で翌日の手術室の枠が取れ、夫は右足腿上部から大切断をした。その後順調に治癒し、杉谷医師のいる病院へリハビリ転院を経て、切断から4か月後に退院、20255月、やっと自宅へ帰った。

しかし、念願の自宅も10日余りで再入院となる。車いすでの在宅生活で思わぬ怪我が続き感染が起きた。長年の薬の副作用により皮膚がオブラートのように薄くなり、剥離が頻発する。全身の筋力低下もあり、今後在宅は難しいだろうとの主治医の見解と看病する私の限界が重なる。

それでも皮膚の剥離も治りかけていた頃、夫は重度の誤嚥性肺炎を二度も起こした。今度の誤嚥は、先に述べたような逆流誤嚥ではなく、食べ違いの誤嚥性肺炎であった。呑み込みの筋力も低下していたのだ。

一番強い抗生剤を投与されるが効かない。効く抗生剤がすでに無くなっていた。この段階で余命3か月と宣告された。

夫はそれを聞くと、少し安堵したように見えた。やっとこの苦しみから解放されると思ったのか。病院ではもうなすべき治療は尽きた。自宅へ帰りたいとの夫の希望で在宅での看取り生活が始まる。

杉谷医師と連携した訪問医師、訪問看護、訪問リハビリ、ヘルパー、介護用品スタッフ、ケアマネージャー、このチームが日々我が家に出入りし、夫に寄り添い手厚く介抱する。皆が帰る時には、私は三つ指ついて見送った。感謝いっぱいで頭の下がる思いだった。

 

余命3か月と言われたが、20257月、わずか3週間で夫は旅立った。73歳であった。

 

昏睡状態の夫を診て訪問医が、いよいよ今晩だと言われた。しかし日の変わる頃、夫は再び全身の痛みで覚醒した。しっかり私を見ている。「分かる?」と聞くと夫はうなずく。体位交換やマッサージを次男に代わってもらい、訪問看護師に電話をする。

次男は、最期の夫に会いに直前に東京から帰省をしていた。一睡もできていなかった私のサポートを献身的にしてくれていた。

また夫の亡くなる5日前には孫全員が学校休んで東京から日帰りで会いに来てくれた。訪問医の強い勧めを受け、息子の妻たちがすぐに決行してくれた。孫は高校生から小学生まで5人。人間の尊厳ある死に向き合う貴重な体験をした。声の出なくなった夫は一人ひとりに筆談で、天国で会おうと別れを告げていた。

 

夜中の2時。訪問医が到着し我々の確認を得て睡眠剤を注射した。

あっけなかった。夫は呼吸がわずかになり終わりを迎えようとしていた。息子と讃美歌で見送る。アメージンググレースで有名な「驚くばかりの」の4番を賛美した。

「御国に着く朝いよよ高く、恵みの御神をたたえまつらん」 天国に凱旋する夫をイメージした。

夫はやっと苦しみから解放されて天に召された。お疲れ様。長年病気との闘いばかりで疲れたね。もう休んでください。

私は、長年の闘病から来る夫のストレスに向き合う葛藤の繰り返しだったが、在宅での看取りですべてが浄化された。一日一日が愛おしくて充実感と幸福感に満ちていた。

『いつの日か この命終える時 最期の景色はおまえの瞳』 このシーンが与えられたことに神様に感謝した。

 

この一か月後、夫の母も追うように天に旅立った。

 

以前「病者の祈り」という詩に出会い、絵を添えてスケッチブックに表現しては個展でも発表していた。ニューヨークのリハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩である。




病者の祈り

 

大事を成そうとして

力を与えて欲しいと神に求めたのに

慎み深く従順であるようにと

弱さを授かった

 

より偉大なことができるように

健康を求めたのに

よりよきことができるようにと

病弱を与えられた

 

幸せになろうとして

富を求めたのに

賢明であるようにと

貧困を授かった

 

世の人々の賞賛を得ようとして

権力を求めたのに

神の前にひざまずくようにと

弱さを授かった

 

人生を享楽しようと

あらゆるものを求めたのに

あらゆるものを喜べるようにと

生命を授かった

 

求めたものは一つとして与えられなかったが

願いはすべて聞き届けられた

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず

心の中の言い表せない祈りは

すべてかなえられた

私はあらゆる人々の中で

最も豊かに祝福されたのだ