これは、1923年に宣教師として来日し、以後54年間、多くの日本人に感化を与えたヘルマン・ホイベルス師が「年をとるすべ」と題する随筆の中で発表した詩である。
母が寝たきりになってから、母の姿は、正にこの詩の通りだと思った。愚痴ひとつ言わず世話になるスタッフに感謝し、謙虚で柔和である。できることは祈りしかない。
母は、寝たきりになっても私の理想であった。
母の体重は25kgにまで落ちていた。食事の量が減り、昼間でも寝ていることが多くなった。
ある日施設のほうから、呼び出しを受ける。通された部屋は主治医の診察室。私は周りを大勢の専門スタッフに囲まれた。
母の状態の説明を受け、総合病院での検査入院を勧められた。
これ以上、母のどこを検査すれば元気な体に戻るのか、母の遺書の文面が頭の中を駆け巡る。家族とはいえ医者の前で死を希望するような話をして良いものなのか、しばらく沈黙が続いた。
皆が、私の返事を心配しながら待っていた。主治医が「まあ、東京のお兄さんと相談してみてください。」と優しく言う。
兄と相談しても答えはひとつ、兄も母の思いをよく受け止めていた。この1年、頻繁に帰省しては、私とはまるで同士のように親の諸問題に対処していた。
「実は母から遺書を預かっておりまして、延命治療をしないでほしいと、書いてあります。兄も私も母と同じ思いです。」と私は口を開いた。そして、「先生、もういいです。」と、首を振りながら伝えると同時に、涙が止まらなくなった。母を天国に送る準備を始め出した自分の言葉に、喪失感と安堵感の織り交ざったものが胸の中で溢れていた。
主治医は理解を示し、その場は静かに、「終末の看取り」の手続きに入って行った。
母の肉体は滅びても、魂は永遠に生き続ける。クリスチャンは、死というものを忌み嫌うのではなく、天国への永遠の旅立ちと捉えているので、希望がある。母を早く楽にさせてあげたかった。
スタッフも、この施設で母を看取りたかったと、打ち明けてくれた。
病院とは違って、施設では栄養補給を目的とした点滴を受けられるのは、5日間という決まりがある。
また、呼び出しを受けた。先回と同じメンバーがカンファレンス室に集まり、私を待ち受けていた。先回と違い、皆の表情にゆとりを感じた。死を肯定的に捉えた明るさが、そこにはあった。
「今日で点滴が終わりました。この後何もしなければ脱水ですぐにその時が来ます。ただそれを防ぐために、生理食塩水の点滴は続けることが可能です。」との施設側の報告に、母の臨終までに会わせたい伯母と兄の帰省のために導入を依頼した。
「何かさせてあげたいことは、ありませんか。施設内のお花見はいかがですか?」。季節は桜の美しい4月になっていた。
次の日、母の花見のために多くのスタッフが動いた。厚着をさせて、寝台用の車椅子で出発。酸素ボンベをゴロゴロ引く後から主治医、看護士、相談員、まるで大名行列のよう、皆、笑顔だった。最高の最期を迎えさせてやろうという施設の気配りに胸が熱くなる。
建物の廊下をわざと回り道をして、桜の下に着いた。空は晴天、大山も見える、後にも先にもこの日が最高の花見日和だった。母が見る最期の桜。私は涙を抑えるのに苦労した。
次の日の早朝、母の容態が一変し、親類を呼ぶことに。伯母も間に合った。兄夫婦も急いで米子行きの飛行機に乗る。
母は危篤状態と小康状態を繰り返す。小康状態の時には意識もあったために、穏やかな笑顔も見せ、「ありがとう」の言葉も聞かれる。私は施設の計らいで、母と添い寝もした。一晩中、母の手を握っていた。
花見から3日目の夜、付き添い用のソファーベッドで横になり本を読んでいたその時、母の喉から声ともつかない音が聞こえて、慌てて起き上がる。母の呼吸が止まっていた。病院とは違って、管につながれていなければ、脈拍や血圧を測る機械にも囲まれてもいない。すぐに、母を揺り動かすと呼吸は復活したが、ナースコールボタンを押しスタッフに来てもらう。
血圧低下、血中酸素も下がっていた。
「お母さんの手を握ってあげてください。」と、スタッフが促す。
私はこの1年間、母が逝く時は私の胸の中で、という願いがあった。
「抱かせてください」と言うと、スタッフはすぐに母の体を起こし、私をベッドの上に上がらせ、母を抱かせてくれた。
母の手を握り神様にお祈りをした。「天のお父様、母がもうすぐそちらに行きます。罪赦され、天国に行けることを本当に感謝します。アーメン」。
背後では、母に以前プレゼントしたオルゴールが響いていた。スタッフが繰り返し、繰り返しねじを巻き上げ、カノンの曲を絶やさないでくれていた。
「お母ちゃん、もういいよ、よく頑張ったね、お疲れさん、天国で待っててね、ありがとう、ありがとう」。
私の腕の中で、母の呼吸はとうとう止まり、もう2度と息をすることがなかった。静かに脈も終わった。
母は天に召された。
「施設で働いていると、避けて通れない死に出会うけれど、今まで怖くて仕方がなかった死が、怖いものではないという体験をしました」。母の臨終を見届けた若い男性スタッフの言葉である。
神に罪赦された者の死は尊いと思った。
母は亡くなる一年前、2005年の誕生日に再度、遺書の追伸を書いている。私の通う教会に納骨をしてほしいことに付け加え、「宰子のカレンダーのお手伝いが楽しくできたことが、何より嬉しく楽しい思い出となったことに感謝しました。ありがとう。」と。
「お母ちゃん、今年も素敵なカレンダーができたよ、ありがとう。」
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