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天国への遺書

2006年 秋

 また来年のカレンダーを準備する季節がやってきた。翌年のカレンダーを製作するに当たり、それまでに描き溜めた絵をチェックしながら、季節にあった植物の絵柄を選んでいくのが6月で、7月には印刷会社との打ち合わせや校正を何度か繰り返し、8月には刷り上がる。そこからが大変、12枚の月々の絵と表紙をセットする作業が待ち受けている。実を言うとその作業を2年前の2005年のカレンダーまではずっと母に手伝ってもらっていた。
 翌年のそれのセットを2人でしている2004年秋、「宰ちゃん、もう来年はこの手伝いができんからね」と、母は改たまった感じで言う。母も年を取り以前のような体力がなくなり、それもうなずける話だと思いながら、母らしくない言葉でもあるなと、妙な違和感を覚えた。
 子供の頃に病みぬいたからと言うのが口癖なほどに母は病気には縁がなく、線が細い割に丈夫だった。また人当たりも良く、誰からも好かれて頼りになる存在だった。
 「来年は生きとるかどうか分からんよ」と、冗談交じりに言うことはよくあったが、真面目な顔でそう言われると、言葉に詰まってしまった。
 確かに、1年前より明らかに痩せて体力が落ちている。その原因を調べるために掛かりつけの病院で検査もしてもらったが、何も悪いところもなく、加齢によるものだと言われ、半分納得し、半分腑に落ちないでいた。

 その頃、母から1通の封筒を手渡された。「私のわがままをここに書いているけど、頼むからこの通りにしてね、一生のお願い。」と、何度も念を押すのだった。
 我が家に向かって日野川の土手を帰る途中、車を路肩に寄せて、先ほど母から預かった手紙を読んだ。 
 それは「遺書」だった。
 「万一、不治の病を宣告されたならば、現代医学での延命処置だけは絶対に避けてほしい。形式的な葬儀だけは望まないので、周りに迷惑をかけないよう子供だけでシンプルに静かに葬ってほしい。新聞の死亡欄には載せないよう。」要約するとそのような内容だった。その年の2月の誕生日に書き記したもので、それまで毎年書き換えていたかどうかは知らない。
 土手から大山が一望できる。車の中でそれを読み始めたら涙が止まらない、読み終えて泣きながらハンドルを握り大山を横目に家路に着いた。
 母の死を真っ向から考えたのは、その時が初めてかもしれない。いずれ、先立つであろうとは漠然と考えていたけれど、あの母がいなくなることが想像できなかった。

 私は小学校時代から母を理想の母親として見ていた。それは中学生、高校生になっても、変わらなかった。自分の意見を押し付けない、ひとつも口やかましくなく、勉強しなさいと一度も言われたことがなかった。信じてくれていた、愛してくれているのが伝わった。だから、自分も親になったら母のような親になりたいと、いつも思って育ってきた。そして、結婚して母親になるのが1番、と思うようになった。その母親像はその後も変わることなかった。
 私の結婚後は妻というお手本に、兄にお嫁さんができれば理想のお姑さんになり、私の子供たちには理想のおばあちゃんになっていった。

 母はそれからも体重は落ち、知人に会うことを拒否し始める。心療内科に受診し服薬しても効果は上がらず、病院を変えてみた。内科的には複数の総合病院を受診するが、検査を受けても異常は見つからず、体力を使うばかりで終わればもうくたくたの日々が続く。
 この頃、母の口から「なぜこんなになっても死ねないの?」と、生きることを恨む言葉ばかりが出るようになった。

 私は20数年前、イエス様に出会う人生の転機を迎えた。自己中心と自己嫌悪の塊の私を神様は赦し、愛して下さり、こんな私でも生きていていいのだと、自己肯定感を得ることが出来た。
 「お母ちゃん、一緒に祈ろう、神様は人間の生れながらにある憎しみ、恨み、怒り、自己嫌悪などの罪のために、ひとりごイエスを十字架に掛け、我々のために身代わりとされたの、罪赦してもらってすべてのことを委ねよう。」と、共に車の中で祈った。
 それから、毎日「神様、どうして良いか分かりません、助けてください。」と、母と手を組みながら祈った。祈り終えると母はいつも泣いていた。
 母の口から「アーメン」と、言葉が出るなんて、この母が信仰を持とうとしているなんて、それまでの母の生き様を見ていたら信じられない光景だった。

 季節は一巡り以上し、2006年のカレンダーも販売を始めている頃、母は45kgあった体重が、28kgにも落ちていた。もちろん1年前、母が言っていたようにカレンダーのセットの手伝いどころではなくなり、食事は少ししか入らない、歩くのもやっとという状態になっていた。相変わらず、「どうして死ねないの」の、言葉が続いた。
 その頃の母の住まいは老人用の賃貸マンションになり、介護認定も受け、ケアマネージャーを始め、スタッフにも恵まれていた。皆、母の心配をして毎日顔を覗かせてくれていた。彼女らは、私とも頻繁に連絡を取り合い、時にはケース会議を開き、各分野の担当者や専門家が母1人のために時間を割いて話し合いをしてくれた。
 それまで、母の変化になすすべもなく毎日途方にくれていた私は、この人たちの存在に心の荷を下ろし、話をよく聞いてもらった。介護者にとってこのような存在がどれほど支えになるだろうか。

 そんなある日、母が一時呼吸も止り救急車を呼んだと連絡を受けた。私はこれでもう終わりかと思ってしまった。
 搬送先の病院へ駆けつけると、母は意識を取り戻していた。会話もでき、昨日までと変わらない表情をしている。原因は強い脱水であった。自室で倒れると同時に非常用の呼び出しボタンを自ら押したようで、駆けつけたスタッフが蘇生をしてくれたそうだ。
 母はボタンを押したことを全く覚えていなかった。生への意欲をなくしていても、生きようとする本能がそうさせるのであろう。
 この日、不思議なことが起こった。我が家で、月に1度の家庭集会を行う予定にしていた日で、牧師の河原先生が2時間掛けて鳥取市から来られるのである。母が倒れたと連絡を受けた段階で、キャンセルの電話を先生に入れると、「では、祈りに来ます。」、との返事だった。
 仲間のクリスチャンと病院に現れた先生は、母の枕元で自分の母親の話を始めた。「90になる母は、昨年神様を信じましてね。今は天国に行ける希望を持って生きています。死んでも行くところがはっきりしているから安心だ、と言って、とても元気に畑仕事をしていますよ。高田さんも神様を信じませんか?」
 そして、罪と赦しの話にひとつひとつうなずきながら、共に祈り始めた。祈り終えると大きな声で「アーメン」と答える母。母が罪赦されて救われた瞬間である。同席していた仲間たちと共に、大きな喜びが病室にあふれた。 この瞬間のために、あの時、神様は命を取らなかったのだ。神様は私たちの考えの及ばない方法で奇跡を起こさせるお方、改めて感服した。
 母は倒れたこの日から、自分の力では何も出来なくなってしまった。歩くのも起き上がるのも、食事も介助なしでは取れなくなった。それまで、介護度1だったのがいっきに最高の介護度5になる。
 しかし、この日を境に母が変わったのである。「こんな体になっても生きてなければならないの?」と、頻繁に出ていた言葉が母の口から聞かれなくなっていた。
 身体の状態は以前より深刻であるのに、信仰告白したこの日から、ありのままの自分を受け止め、イエス様に全部委ね、神様からしっかり愛されていることを実感したからではないだろうか。
 身体は滅びても魂は生き続ける。この希望をいただいて、2人でよく祈った。「神は実にそのひとり子を失うほどに世を愛された。それは御子を信ずる者がひとりとして滅びることなく永遠の命を持つためである。」この聖句を解説しては祈り、「天国で会えるからね。」そう言うと、大きな声で「アーメン」と言い、とても柔和な笑顔になった。

 年が明け2006年、私の長男の結婚式が2月に予定されていた。母が式に出るなんて到底ないという前提で式の打ち合わせは進んでいた。
 結婚式も近くなり、母には「写真を見せるから楽しみにしていてね」と言うと、「うんうん」と答えながらも表情が今ひとつ冴えない。
 母を何とか式だけでも参列させる方法はないだろうかと、思案する。「相談してみるから、式に出られるように、お母ちゃんも祈っていてね。」と言うと、母は本当に嬉しそうな顔をした。
 夫や兄へ相談をし、福祉タクシーや介助者の検討した結果を持って、入居している施設に考えを伝えに行った。

 その頃母は、老人健康福祉施設というところに移動している。倒れてからは、自立生活が前提の以前のマンションに戻ることは不可能になり、入院していた病院から、リハビリを目的とした今の所に移っていた。これにも以前から関わってくれていたケアマネージャーの働きかけがなければ不可能なことだった。
 施設の相談員に結婚式の話をすると、全面的に援助をするとの協力を得た。利用者の気力向上は何よりのリハビリと、介護項目として受け入れてくれた。余りにも簡単にことが解決したので拍子抜けしたぐらいだった。
 この日から母の、式出席の準備が始まる。施設巡回美容室への予約、衣装の思案、それらを母と話し合うだけで、母の表情が華やぐのが分かる。これなのだ、気力というのは。ベッドの上で寝返りも出来ないで過ごす退屈であろう日々を、目標を持つということで新たなる力が湧いてくれば、それは大きな治癒力になる。

 結婚式当日の朝、山陰ではこの季節にしては珍しく晴天となり、心踊る気持ちで母を待ち受ける。母は呼吸も整わないので、短時間しか式場に居ることしか出来ない。看護士と介護士2人が酸素ボンベと共に母を乗せた寝台用車椅子を押して式直前に到着してくれた。施設を出る時、母は頬が紅潮し、最高の笑顔でスタッフの見送りを受けたそうである。母はこの前日、79歳になっていた。
 息子たちは新婚旅行へ旅立ち、私は式の余韻に浸っている頃、母の食欲が落ち、気力もなくなったと報告を受ける。「結婚式の疲れが出たのでしょうか」主治医は言う。異や、孫の結婚式に出ることが、母に最後の気力を振り絞らせたのであって、力尽きた感に思われた。

10年も前に出会った詩がある。とても印象深く、紙切れに書いてずっと聖書に挿んでいた。


“人生最上のわざ”

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれど休み
しゃべりたいけれど黙り、失望しそうな時に希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架を担う。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人の為に働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人の為に役立たずとも、親切で柔和であること。

老い、老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後の磨きをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。手は何もできない。けれど最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。
『来たれ、わが友よ、われ汝を見捨てじ』と。



これは、1923年に宣教師として来日し、以後54年間、多くの日本人に感化を与えたヘルマン・ホイベルス師が「年をとるすべ」と題する随筆の中で発表した詩である。

母が寝たきりになってから、母の姿は、正にこの詩の通りだと思った。愚痴ひとつ言わず世話になるスタッフに感謝し、謙虚で柔和である。できることは祈りしかない。
 母は、寝たきりになっても私の理想であった。

 母の体重は25kgにまで落ちていた。食事の量が減り、昼間でも寝ていることが多くなった。
 ある日施設のほうから、呼び出しを受ける。通された部屋は主治医の診察室。私は周りを大勢の専門スタッフに囲まれた。
 母の状態の説明を受け、総合病院での検査入院を勧められた。
 これ以上、母のどこを検査すれば元気な体に戻るのか、母の遺書の文面が頭の中を駆け巡る。家族とはいえ医者の前で死を希望するような話をして良いものなのか、しばらく沈黙が続いた。
 皆が、私の返事を心配しながら待っていた。主治医が「まあ、東京のお兄さんと相談してみてください。」と優しく言う。
 兄と相談しても答えはひとつ、兄も母の思いをよく受け止めていた。この1年、頻繁に帰省しては、私とはまるで同士のように親の諸問題に対処していた。
 「実は母から遺書を預かっておりまして、延命治療をしないでほしいと、書いてあります。兄も私も母と同じ思いです。」と私は口を開いた。そして、「先生、もういいです。」と、首を振りながら伝えると同時に、涙が止まらなくなった。母を天国に送る準備を始め出した自分の言葉に、喪失感と安堵感の織り交ざったものが胸の中で溢れていた。
 主治医は理解を示し、その場は静かに、「終末の看取り」の手続きに入って行った。
 母の肉体は滅びても、魂は永遠に生き続ける。クリスチャンは、死というものを忌み嫌うのではなく、天国への永遠の旅立ちと捉えているので、希望がある。母を早く楽にさせてあげたかった。
 スタッフも、この施設で母を看取りたかったと、打ち明けてくれた。

 病院とは違って、施設では栄養補給を目的とした点滴を受けられるのは、5日間という決まりがある。
 また、呼び出しを受けた。先回と同じメンバーがカンファレンス室に集まり、私を待ち受けていた。先回と違い、皆の表情にゆとりを感じた。死を肯定的に捉えた明るさが、そこにはあった。
 「今日で点滴が終わりました。この後何もしなければ脱水ですぐにその時が来ます。ただそれを防ぐために、生理食塩水の点滴は続けることが可能です。」との施設側の報告に、母の臨終までに会わせたい伯母と兄の帰省のために導入を依頼した。
 「何かさせてあげたいことは、ありませんか。施設内のお花見はいかがですか?」。季節は桜の美しい4月になっていた。
 次の日、母の花見のために多くのスタッフが動いた。厚着をさせて、寝台用の車椅子で出発。酸素ボンベをゴロゴロ引く後から主治医、看護士、相談員、まるで大名行列のよう、皆、笑顔だった。最高の最期を迎えさせてやろうという施設の気配りに胸が熱くなる。
 建物の廊下をわざと回り道をして、桜の下に着いた。空は晴天、大山も見える、後にも先にもこの日が最高の花見日和だった。母が見る最期の桜。私は涙を抑えるのに苦労した。

 次の日の早朝、母の容態が一変し、親類を呼ぶことに。伯母も間に合った。兄夫婦も急いで米子行きの飛行機に乗る。
 母は危篤状態と小康状態を繰り返す。小康状態の時には意識もあったために、穏やかな笑顔も見せ、「ありがとう」の言葉も聞かれる。私は施設の計らいで、母と添い寝もした。一晩中、母の手を握っていた。

 花見から3日目の夜、付き添い用のソファーベッドで横になり本を読んでいたその時、母の喉から声ともつかない音が聞こえて、慌てて起き上がる。母の呼吸が止まっていた。病院とは違って、管につながれていなければ、脈拍や血圧を測る機械にも囲まれてもいない。すぐに、母を揺り動かすと呼吸は復活したが、ナースコールボタンを押しスタッフに来てもらう。
 血圧低下、血中酸素も下がっていた。
 「お母さんの手を握ってあげてください。」と、スタッフが促す。
 私はこの1年間、母が逝く時は私の胸の中で、という願いがあった。
 「抱かせてください」と言うと、スタッフはすぐに母の体を起こし、私をベッドの上に上がらせ、母を抱かせてくれた。
 母の手を握り神様にお祈りをした。「天のお父様、母がもうすぐそちらに行きます。罪赦され、天国に行けることを本当に感謝します。アーメン」。
 背後では、母に以前プレゼントしたオルゴールが響いていた。スタッフが繰り返し、繰り返しねじを巻き上げ、カノンの曲を絶やさないでくれていた。
 「お母ちゃん、もういいよ、よく頑張ったね、お疲れさん、天国で待っててね、ありがとう、ありがとう」。
 私の腕の中で、母の呼吸はとうとう止まり、もう2度と息をすることがなかった。静かに脈も終わった。
 母は天に召された。

 「施設で働いていると、避けて通れない死に出会うけれど、今まで怖くて仕方がなかった死が、怖いものではないという体験をしました」。母の臨終を見届けた若い男性スタッフの言葉である。
 神に罪赦された者の死は尊いと思った。

 母は亡くなる一年前、2005年の誕生日に再度、遺書の追伸を書いている。私の通う教会に納骨をしてほしいことに付け加え、「宰子のカレンダーのお手伝いが楽しくできたことが、何より嬉しく楽しい思い出となったことに感謝しました。ありがとう。」と。

 「お母ちゃん、今年も素敵なカレンダーができたよ、ありがとう。」

いわたさいこ